八百屋さん跡地からスタートしたアスプローバ社の歴史~創業者・高橋邦芳

2023.02.20X1:アスプローバ社員インタビュー

 アスプローバ社の創業者、高橋邦芳さんに、1994年の創業時から現在に至るまで、そして未来の構想を聞きました。Asprovaの歴史は、日本の生産スケジューラの歴史でもあります。高橋さんはゼロから生産スケジューラを作り上げ、20年以上にわたり、この分野のナンバーワンであり続けています。現在も、新たな考え方に基づくSolverにより、スケジューラの進化を図っています。前半は創業から、ビジネスが軌道に乗るまでの話です。

がけっぷちの決断

ー 創業のいきさつは?

 当社設立前は、東工大の仲間と起業して、人工知能(AI)構築のソフトウエアを開発していました。1980年代に第2次AIブームが訪れ、専門分野の知識をコンピュータに取り込み推論する「エキスパートシステム」がはやっていたのです。しかしブームはほどなく終わり、エキスパートシステムは売れなくなりました。

 どうして売れないのか、がけっぷちに立って真剣に考えました。そして、役に立っていないからだ、と自覚しました。その時点で、自分の作りたいものを作るという考えは100%捨て、お客さんがどんなものを買ってくれるかを探り、役に立つソフトウエアを作ろうと決断したのです。

 当時のAIには、診断型、設計型、計画型といろいろありました。客先を訪ねて何が求められているかを探ったら、計画型の中に「これならできそうだ」というものがありました。それがスケジューラの原点になったのです。AIからスケジューラに進んだ企業は、米国のi2テクノロージーズ(現在のブルーヨンダー)など、海外にもあります。

ー ビジネスをどのように軌道に乗せたのでしょう

 独立したのは、94年の2月1日です。大岡山の商店街の中の八百屋の跡地を借りて、3人でスタートしました。スケジューラは独立前から自分で作っており、「Auto Scheduler」という名前をつけました。当時はインターネットがまだ普及していなくて、宣伝や広報活動には困りました。幸運なことに、前の会社で付き合いのあったNEC系列の販売会社の中に、製品を高く評価してくれる人がいたのです。そちらの社内で「Auto Schedulerというのはよさそうだ」と評判が広まり、営業を始めてくれました。

 ほどなく運転資金の枯渇が問題になりました。公的な金融機関に融資をお願いしたのですが、設立から日が浅いという理由で、丁重に断られてしまいました。その年の6月か7月ころ、パナソニックのマレーシア工場で採用されることになり、それから大手日用品メーカーの研究所が9月に買ってくれました。それで資金ショートを免れたのです。すぐにでもほしいという話でしたが、「動くかどうかチェックしないとだめですよ」と申し上げると、若い研究者が飛んできて、すぐ契約にこぎつけました。以来、資金に困ったことはなく、無借金経営を続けています。

 このころは受託開発もやっていました。それは大企業の下請けであり、利益は少ないけれど、深夜までかけてプログラムを書いていました。Auto Schedulerのうわさを聞いてか、いろいろな大企業の人たちが小さなうちの会社を訪ねてきました。外形はほとんど八百屋のままですから、あわれに思ったことでしょう。一方で応援してくれているようにも感じられました。今でも、コストダウンを迫られている町工場の話などを聞くと、身につまされる思いをします。

バキュームカーの仕事

ー その後も起伏がありましたか?

 スケジューラは、一度売れ始めると、どんどん売れるようになりました。「Auto Scheduler」では商標登録が却下されたため、製品名を「Asprova」に変えました。Auto Scheduling for Professional Valueの略語です。会社は94年に品川区平塚に移転しました。競合があまりなかったことも追い風でした。生産スケジューリングのソフトウエアで、カスタマイズ開発をすることなく導入できる製品はなかったのです。海外を見渡すと、スケジューラは確かに存在するのですが、どうやらウチの製品の方が優れています。価格が高くても売れました。

 開発は常に続けなくてはなりません。客先で、機能が足りないといわれ、これだけやってもまだ足りないのか、と落ち込みました。スケジューラのプログラムは、本当にややこしくて、誰も書きたくないようない代物です。そんな時頭に浮かんだのは、子供時代の記憶です。その頃まだバキュームカーが街を走り回っていました。そこで働く人は、他人がいやがる仕事をしています。大変そうだなあ、と子供心に思っていました。今やっているのは、そういうことなのだ、と自分を納得させたのです。ここを突き抜ければ、きっといいことがあると思って、頑張りました。

 売上が伸び、開発に必要な作業量はさらに増えていきます。すいすいプログラムを書いてくれる人がどうしてもほしかった。腕のいい日本人のプログラマーを雇用するのはなかなか難しい情勢です。そんな時、インターネットを通じて10万円で世界的に求人できる、という情報を得て「すぐにやろう」と決めました。そういう方法がまだ珍しかったのか、外国人がどんどん応募してきたのです。2、3日で60通も来ました。とりあえずアルバイトで働いてもらって、腕をみながら、正式に採用したりしました。

 そうこうするうちに、2001年には東工大から田中智宏さん(現社長)も新卒で入ってきてくれました。

“><後半へつづく>

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