創業時代から現在までの生産スケジューリングの変遷を語る~吉田美沙子
2023.02.10X1:アスプローバ社員インタビューアスプローバ社で、総務・経理の全般と、製品の発送業務を担当する吉田美沙子(よしだ・みさこ)さんに今昔の話を聞きました。創業当時からアスプローバ社を知る貴重な存在です。ほぼゼロから始まり、一歩一歩発展してきた姿を実感します。
商店街に間借りして
ー 創業のころの様子を教えてください
私は1994年の開業と同時に入社しました。創業者の高橋邦芳さんはじめ3人が、前身の会社から独立する形でした。大岡山にある商店街の八百屋の跡を借りました。コンクリートの床の上に机を並べ、隣には別の会社が入っていました。東工大の学生アルバイトが来るのに便利だという理由で場所を選んだのです。商店そのもので、仕事が終わるとガラガラとシャッターを下ろして帰るのです。お客さんが来ると3人がそろって立ち上がり「いらっしゃいませ」と声を出すようにしていました。
資金にあまり余裕がなかったので、助成金の申請や伝票なども手作り。無料でできる広告を探し回りました。製品も、使い方を書いたマニュアルも手作りです。大変な面もありましたが、仕事をやっていて楽しかったですね。最初は「スケジューラー研究所」という社名で、後にアスプローバとしました。
無名でしたから、販売戦略としては、大手系列の販売会社と取引し、そのネームバリューで信用を得ていきました。2年ほどで販売が軌道に乗り、人も増えてきたので、品川区平塚のマンションに移りました。あまり大きな建物ではなく、2フロアを借り、結局3フロア使うことになりました。ここには2012年までいました。東日本大震災のとき、ものすごく揺れて、上から物が落ちてきてパソコンが壊れたりしました。
個性的な社員たち
ー 外国人の社員が多かったそうですね
アメリカ人、インド人、中国人、マレーシア人、インドネシア人、日系ブラジル人、オーストラリア人など、入れ替わり立ち替わり、働いていました。インド人の青年は日本語ができなくて、また食事も合わなくて気の毒でした。その人がやめた後、旧社屋の近くにカレー屋ができて、残念に思いました。インドネシア人の青年はあるとき「ぼくは一夫多妻の家で生まれ育ち、○○番目の子供なんです」とポロリつぶやき、みんなびっくりしました。○○は個人情報かもしれないので言いませんが、ずいぶん大きな数字です。
一緒にディズニーランドに行ったり、スキーに行ったりしました。初めカタコトの日本語でもすぐに上達し、メールの文章も日本人以上にちゃんと書けるようになるから、すごいですね。外国人、日本人に限らず、弊社の社員は人間ができている人が多いと感じます。若い子でも、それぞれ個性的ではあるけれど。けっこうしっかりしています。
ー 今の本社はどうですか
2012年、西五反田に本社を構えました。1フロアを借り切り、内装も使いやすいように作り上げ、今に至っています。ここ数年はコロナになって出勤も減り、ストレスも小さくなっているように思います。電子化はウチだけでなく、取引先も進んできました。納品もフロッピーディスクだったのがCDになりUSBメモリになり、最近はもうモノを送ることが少なくなってきました。
モノを送っていた時代は「高価なものだから、それなりのパッケージを」というお客さまの声に応じて、高級なパッケージを作ったりしていました。電子納品の時代になるとそれも無用になりました。
ただ海外への発送は、まだ実物で行うことがあります。それが途中でなくなってしまう、ということもあり、工夫しています。完成品ではなく、客先で組み立てて完成品にするとか、ロックをするとかです。ヨーロッパではロシアとウクライナの戦争もあって、その影響を受けたりしています。
幸いこれまで大きな失敗はなく、お客さまの声を聞きながら、業務を改良してきました。事務部門は私1人で奮闘してきたけれど、営業支援ツールのSalesforceを入れたことにより、営業やコンサル業務との共有が可能となり、ようやく余裕がでてきました。
ー 休日の過ごし方などは?
犬と一緒にお散歩です。ポメラニアンとチワワのミックス犬で、「ラブちゃん」といいます。エアバギー(ワンちゃん用のカート)に乗せて電車に乗って、お出かけすることも。くつろげる時間です。
コラム編集部
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